久保 奈美江

  福岡県北九州市生まれ

  薬剤師、認定薬剤師、健康管理士

<自己紹介>

(誕生)

個人薬局を経営する薬剤師の父と元看護師の母、6歳上の兄、祖父母という家族構成の中で、妊娠丸々8カ月の日、仮死状態の未熟児で誕生。

小さすぎて通常の人工呼吸が出来ず、足首を持ってぶら下げた状態で胸を叩く方法を繰り返して生還。その後も、ミルクを飲むたび、詰まらせ仮死と生還の繰り返しだった。

(生後から幼児期)

成長は遅く、歩行も遅れ、足を引きずらせて歩く。3歳近くなっても、言葉(単語)を話さず、「かっか~」(母のこと)「まんま~」(食べ物)と発するだけ。感情は、嬉しければ前転するなど体現していた。

心配した父が、童謡のレコードを買ってきて聴かせてから、驚くほど言葉を喋るようになった。

(幼少期)

女の子とはおままごとなどして遊ぶが、男の子と走り回ってあそび、ガキ大将の髪を引っ張って、泣かすほどおてんばだった。天真爛漫といえば聞こえは良いが、自分の意思を通し続けていた時期。

その頃のエピソード:年越しの夜中に氏神様参拝のおり。私だけ、着物を着せてもらったが、家族全員着物を着るようせがみ、泣き叫び、結局、全員着物で参拝した、周りが根負けした、という話。

(小学生)

父から、私が興味を持ったことに対して、けなされる、又は、「やめたらどうか」と言われることが多くなる。バレエを習いたいと言ったら、「西洋かぶれみたいなことを言うものじゃない」と。「グズ」「下手くそ」「どんくさい」「こんなことも出来ないのか」は何度言われたことか。テレビ番組も歌番組は見せて貰えなかった。自分の価値観を押し付ける父だった。

祖父から、友達が遊びに来ているのに、用事を言いつけ、すぐにしないと叱られることが多々。「女子(おなご)たるもの、こうであらねばならぬ」と所作に対して説教も。

母からフォローされることもなく、「お父さんが機嫌が悪くなると面倒だから、あなたがちゃんとしなきゃ。お父さんの言う通りにしなさい」と言われる。

このころから、大人の顔色を伺うようになり、だんだん自分の気持ちを閉じ込めていく。波風立たぬよう、周りに合わせ、イヤと言わず、いい子、いい人、都合のよい人の始まり。

小学校の担任の先生は、皆厳しく、怒られないように、いい子にしていた。

あるとき、授業時間が迫るのに、数人が教室に入ろうとしないので、仲良しの子に、早く戻ろう、と言ったら、「自分さえ良ければいいんだね」と言われ、学校でも、本心を隠すようになった。

2年生のころ、中学2年生だった兄が、柔道の練習で、私を布団に投げ、股関節脱臼。病院で治療受け、運動禁止を言われ、肉付きが良くなってくる。

4年生から6年生の3年間同じ先生だったが、各教科、徹底的に鍛え上げられた。真面目にちゃんとしないと、怒られ、罰もあり、必死に宿題も勉強もした。「班で連帯責任」で、問題を解くのも、出来ない人がいたら、一緒に教える。嫌いな食べ物も食べ終わるまで、机を片付けないとか。自然と助け合い、それぞれを尊重認め合うことを学んだ。

5年生頃から、暴食が始まる。原因は不明だが、1日5食していた。その結果、4年生から5年生で10キロ増、5年生から6年生で10キロ増。150センチで68キロの肥満児に。「ジャンボ」と言うあだ名もいつの間にか付いていた。

いつも通り学校に行ったら、「今日は、別の所に行きなさい」と担任に言われ、行った先が肥満児学級で、ショックと寂しかったのを覚えている。

それから、2年生の頃、エレクトーンを習い始めた。楽しくて課題曲を練習し、弾けるようになるのが嬉しかった。5年生の頃、先生から「もう教えられない

ので、違うエレクトーンの先生を紹介する」と言われた。「嫌われた、ダメなんだ私」とショックを受けて、やめた。この先生が教えられる級を私が超えたためと後にわかった。

(中学生)

1年生になってすぐ、クラブ活動が始まり音楽部に所属。

あるとき、クラスの男子から、何部に入ったか聞かれ、音楽部と言ったら、「スポーツして身体を動かさないとブタのまま」と言われる。この言葉に一念発起。私と同じくらい運動音痴だった子が、剣道部にいたので、私も出来るはず、と剣道部へ転部。ハードだったが、性格的に合ったみたい。少しずつ痩せた。

2年生のクラスでは、意地悪な女子がいて、子分のような子を従えてグループ作っていた。ある時調理実習で、同じ班になり、残ったご飯をおにぎりにして、誰が持って帰るかでもめた。リーダー格の子が、私の後頭部めがけて、おにぎりを投げつけた。「真面目過ぎて、ムシャクシャする」と。色々いじめを経験。同じ空気を吸いたくはないが、とにかく校舎にいる間は耐えた。部活があったので、悔しい思いを練習にぶつけて、ストレス発散。いじめのことは、家族の誰にも言わなかった。剣道で、救われた。3年生の時、クラス替えで離れたので、その後は普通に過ごせた。

(高校生)

剣道部に入りたかったが、父から大学受験のため、勉学に勤しむよう、部活禁止令。塾の先生からも、部活禁止と言われた。それならば、自己流で弾いていたエレクトーンをちゃんと習いたいと懇願し、父に了承してもらった。でも、剣道への思いは募るばかり。約束破り、5月半ばに剣道部に入部。3年生の1学期まで続け初段は取った。

本業の学業は、勉強しなくても成績が良かった文系、勉強しても点数が悪い理数系とはっきりしてきた。私の選択肢は、薬学部しかなく、3年生の時の担任に、「理数系大学志望なのに、理数系が悪いのは、どうにかならないか」と成績表にコメントまでされる始末。当然、受験しても、落ちる。

昔、小さい頃から、父に「お前はブスだから、嫁の貰い手はない。手に職をつけて一人でも生きていけるように、資格をとれ、薬剤師になれ」と言われ続けた私。「そんなに資格が必要なら、別の職業で資格を取る」と言ったら、頬を叩かれた。

諦めというか、腹をくくり、猛勉強して、大学薬学部合格。

(大学生)

理数系が得意な人達の集まりだから、学力の差を痛感。単位を落としても、再試験でパス。必死に授業や実習についていった。

学生には、薬局の子息も多い。でも、皆とても自由にのびのび育ってきていたのを知った。同じ薬局の子供なのに、なぜ私とは違うのだろうと、何かと制限してきた両親を恨んだものだった。

卒業試験で、2点足らず卒業延期も経験。薬剤師国家試験も浪人を経験。

順風満帆とはいかない所で、貴重な人生経験をしたことはラッキーだった。

(社会人)

最初に就職したのは、個人経営の調剤薬局。求人があったので、面接兼詳細を確認しにいったら、「今日は、こちらに決めて頂きありがとございます」と言われてしまい、そのまま働くことに。「まだ決めていない」という一言、意思表示ができない自分がいた。そこでは、社会人とは何ぞや、を学ばせてもらった。

父の入院を機に、そこは3年弱で、退職。

父が薬剤師会の仕事もしていた関係で、私を知っている方から、誘いを受け、今度は自分の意思で、地域密着型のドラッグチェーン会社に就職。その中の調剤薬局店舗に勤務。社員数も多く、色々な人がいた。

病院関係でも、医師の機嫌を損ねないよう細心の注意をはらうことも仕事の一つ。

通常業務以外にも、社内勉強会の講師、社内発表会、学会発表のための業務もあった。また、半期ごと、個人目標を立て、成果を報告、評価につながるものだった。

このころから、本来の患者様と向き合う時間が少ないこと、そして、こんなに薬を出す必要は無いのでは、この薬じゃなくても良いのでは、という疑問を持つようになる。

要領よくできないし、イヤと言えない性格を、うまく利用されて、敬遠される仕事をたくさんしてきた。人間関係にも悩み、辞めたいと思い、辞表を書くも、必ず、そのタイミングで家族の誰かが入院するという現象が。父が亡くなった時には、母を養うためと思い、結局、辞めずに、勤続28年目に突入。

自分より、他人の為、家族の為と我慢を重ね、心に蓋をし続けたら、めまい、耳鳴り、円形脱毛症、胃潰瘍、静脈炎(下肢静脈瘤の手前)、偏頭痛、体のゆがみ等々身体も色々な悲鳴をあげた。

このままでは、いけないと思い、色々な自己啓発や、スピリチュアル系、健康関連の本を読んだり、セミナー参加。好きなライブや演劇を見に行ったりして気分転換を図っていた。

そんな時、運命的な出会いが。ネットで本の検索をしていたら、「あなたにおススメの本」の中に、リズ山崎先生のシリーズが何度も出てきて、この方は誰?何?その中の1冊を取り寄せた。本の中の言葉に、救われた私は、この方に会ってみたいと思うようになり、横浜のサロンセミナーに参加。終了時、玄関を出ていく参加者に向かって、「このまま今日で、終わらない方がいますよ」と言う言葉が私に刺さり、個人セッションして頂くことになった。

自分がどうなりたいのか、凝り固まった自分を解放するすべを学び、少しずつ変わっていった。私は救われた。

そのころから、会社勤めに固執する意味はないこと、人間関係の苦しさも、そこから離れさせてくれるための人が用意されていただけ、ということに気付いていく。

母の介護も重なり、ある患者様との出会いで、私は退職を決断する。

その方は、北海道在住で、出産の為、北九州に帰省されていた女性。持参された処方箋は、心療内科の薬が書かれていた。マタニティーブルーから、産後うつになったよう。薬の内容が毎回変わり、赤ちゃんを連れて北海道へは、なかなか帰れなかった。私がすることと言えば、体調の変化や、副作用が出てないかどうかの確認だけ。本当は、もっとお話を聞くとか、背中をさするとか、抱きしめてあげたかったのに、何もできなかった。そんな自分がとても嫌だった。

薬屋の娘でありながら、薬を使わず、小さいころから、外で怪我したらヨモギで揉んだり、唾つけたり。蚊にさされたら、塩でもんでいたくらい。

大人になってからは、風邪引いたらたまご酒を飲んで寝る、これをいつもしていた。自然にうまく自分の免疫力を利用していた。

心の叫びが身体に出る事、身体のサインを見逃さない。
そのまま不調に気付かないふりして不健康さらには病気へのゲートに直進させたくない

あなたが心や身体からのサインに気付いたときから
未来の健康を今日から創ることができる

心を解放すること、身体によい食べものにかえること
すぐ薬に頼るより、ご自分の心や身体の回復力を信じて欲しい

薬剤師として、延べ約2万人の患者様と接してきたその経験を活かして、心と身体に寄り添い、笑顔の人を増やすために、「心と身体のヘルスコーチ」として、あなたのお役に立ちたいと思う